東日本大震災を仙台・宮城・福島の写真で振りかえる

2011年5月14日土曜日

極端な主張や議論にはうんざりだ。

  
極端な議論は調和を生まないと思う。

私は以前、他のブログサービスで保守的な思想の人々とネット上での交流をして、自身も保守的な記事を書いたり、他人の記事を引用したりしていた。
確かに民主党には問題が多い。日本を守るという気概が感じられない。あの党の旗のマークも意味深長であるが、憶測にすぎないのでここで取り上げるのは止そう。

民主党の問題は、彼ら自身も認識しているが、党の綱領が存在しないことだ。 これは、党の方向が定まっていないということだ。
だから、迷走するのではないでしょうか?

民主党が悪いと言うこともできるが、一番の問題はそのような無綱領政党に政権交代を実現させた
有権者、国民にあると思う。

権利と義務・責任は表裏一体だと、私も今までの小学校、中学校、高校、大学などで様々な人々から聞いてきたが、選挙権をもつ有権者は自らの選挙結果に責任意識を持つべきだ。

かく言う私は、誠に恥ずかしながら、選挙権を行使したことがない。いわゆるノンポリだった。テレビを見ていて、ろくな政治家がいない、と思い込んで、自分で情報を能動的、主体的に手に入れて判断しようとしたことがなく、有望な政治家がいないのだから、選挙に行かないことが意思表示だと勘違いをしていた。
昨年の尖閣諸島違法操業事件で、私は政治に無関心であることがいかに無責任であるかを痛感した。(この事件も、つい最近、起訴相当との判断が出たが、既に船長は中国に帰国しており、再び日本に呼び寄せるのは絶望的である。とんだ茶番である。)

私は、その時、今度こそ選挙に行くと心に決めたのだが、3・11、東日本大震災の影響により東北地方での地方選挙が延期になってしまった。
日本国民ならば全員が選挙権を持っているのではなく、有権者は日本国籍を持つ満20歳以上の男女である。つまり、満20歳に満たない男女には選挙権はない。私は、有権者は非有権者に対して責任があると考える。非有権者は即ち次世代だ。政治はこれからの日本や地域の行く末を議論し、決定する場である。

選挙権を持たない若者の中にも、政治に熱心な人はいるだろう。しかし彼らには権利がない。もどかしいだろうと思う。しかも、今の有権者の投票率は 50%ほどしかない

選挙は未来、将来のために行われるが、有権者が無責任ではよりよい未来には向かえないのではないか。
結果的に投票した政党や政治家に後になって失望したとしても、選挙に行かずに傍観していた人よりは、責任ある行動をしたと言えると思う。

さて、私が極端な議論はうんざりだと思ったのは、マスコミが政治家の良くないところばかり報道し、国際社会での評価などをあまり国民に知らせて来なかったことだ。

自民党政権末期の麻生元首相へのバッシングがいい例だろう。

極端な議論にはうんざりだ。物事を善か悪かで二分して思考停止しては、議論にならない。

自民党が悪で、民主党が善というような風潮が、政権交代時にはあったが、結局民主党は政権担当能力が乏しいということは民主党支持者も実感されたことだと思う。

ただし、その反対で、自民党が善で民主党が悪という主張がネット上に広がっているように感じるが、それもどうかと思う。

マシだとは思う。
だが、完璧な人間はいない。人間の集まった政党にも完璧はありえない。

時代ごと、社会情勢ごとに適した政治がある。良いか悪いかではなく、適しているか適さないかである。

2011年5月11日水曜日

挫折。無力感。政治家も私も先人の知恵を生かすべし。





 私は産経新聞を毎日購読している。



 ネットで新聞比較されている記述を見て、産経はひと癖あると書いてあったが、他のマスコミと少し違う視点なら、むしろそういう情報を見た方がバランスが良くなるのではないかと考えた。

  産経は他社よりは、民主党に厳しい論評を載せている。

 今朝の一面では、震災後一度も安全保障会議が開かれず、首相は法的根拠のない組織を20以上矢継ぎ早に設立して、指揮命令系統が混乱したことを批判している。


 また、昨年の北朝鮮による韓国・延坪(ヨンピョン)島砲撃の際にも安保会議は開かれなかった。

 紙面を読みながら、国民一人一人ができることは小さく、国のトップの総理大臣が正しい決断しなければ、国の方向性は良い方向に向かわないのではないかと感じた。今のように総理大臣が自己の保身に走り、先人の知恵である安全保障会議を開催せず、自己の実績・演出のために新しい組織を設置しているようでは、国の方向は迷走するばかりだ。


 昨日は原発20km圏内の川内村に92人が一時帰宅した。2時間だけ。しかし、川内村は福島市や郡山市よりも放射線量が低いのだ。

 避難区域が同心円状であることは適切なのか。


 また、帰宅に際して、「自己責任で」と誓約せねばならなかったそうだ


 私は、自分には今何もできないことを実感した。私にできるのは、将来の日本のために判断力と知識を養うことだろう。


 私は震災前に、私生活で大きな挫折を体験しており、しばらくの間放心状態になり、何もやる気が出なくなった。

 現在もまだ、その影響が残っているが、いい加減克服して、自分のことを憐れむのではなく、国のため、故郷のために自分の命を使うことに専念すべきだと思う。


 挫折というのは、簡単にいえば失恋だが、ただの失恋ではなく、その人のために自分の人生設計を大きく転換して新しい生活を約一年前に始めていたのだ。私の一年間は何だったのか、頭の中が混乱して、これから何を目指して生活すればいいのか、指針を見失ってしまった。

 そもそも、女のために人生設計を変えたのが間違いだったと思う。多くの人に留められたが、まさに恋は盲目であり、私は聞く耳を持たなかった。


 忠告してくれた人たちも、最終的にはやってみなければわからないから、と私を応援してくれたが、結局、みなが憂慮した事態に陥ってしまったのだ。

 今回の教訓の一つは、他人の忠告は素直に聞いて、冷静に判断すること。


 私は、自分が正しいと思うと、周りの意見を聞かなくなるところがあった。しかし、今回の挫折を経験し、他人の意見は素直に聞かなければならないと、改心した。

 三人寄れば文殊の知恵という格言があるが、これは裏返せば、一人や二人だけでは知恵が足りない、一人や二人だけで重大な決定を下すのは危険をはらむということではないか。


 冒頭に述べた、現総理大臣が先人の用意した法的根拠のある安全保障会議を開催しないことと、私が家族はじめ人生の先輩の意見を聞かずに、自分の判断で未知の領域に飛び込んで失敗したことは、どこかつながりがある。

 先人の知恵を無視したことである。


 私は、菅直人氏の首相在任には反対であるが、さて己はどうかと言えば、他人を批判できるほど立派な人間ではない。


 まだまだ、若造、アマチャンである。


 自分が立派な人間でなければ、他人を批判してはいけないとは思わないが、他人を批判するのならば、果たして自己は如何にあるべきか、自己は向上に努めているか、自分を棚に上げて批判だけするような無責任な人間ではないか、と自問するのが筋だと思う。今にしてそう思う。


 

2011年5月9日月曜日

マスメディアに一言 福島県の農家を救え!

 今朝、NHKニュースを見ていたら、福島県いわき市の農家が、作付制限になってはいないのに、作付をためらっている、という報道があった。


 風評被害で作っても買ってくれないかもしれないからだ。
手間暇かけて、愛情をこめて育てたお米を誰も買ってくれないかもしれないという懸念があるのだ。


 お米という漢字は八十八とも読むことができ、お米を作るには「八十八」もの手間暇がかかっているという、だから、ご飯粒を残してはいけない、という話を聞いたことがある。


 米という漢字が八十八というのは、言葉遊びのひとつだが、そういう感性がある日本人はすばらしい。
写真素材 PIXTA
(c) yanmo写真素材 PIXTA



 話を戻すが、手間暇かけたお米が売れないというのは、やりきれないことなのだ。
しかし、制限されていない地域では、作付をして、作物を生産しないことには補償が得られないので、作付はしなければならない。


 そのニュースでは、ある農家が、生産するお米の放射線量の測定結果をインターネットで公表して、消費者に安全性を訴える、という姿が報道された。


 そこで、マスメディアに一言。


 なぜ、農家が個別に安全性を訴えなければならないのか。マスメディアがきちんと安全性を訴えてくれれば、農家が余計な手間をかける必要はないのではないか。


 もちろん、 マスメディアの影響力にも限界があるとは思うが、どこか、農家に対して冷たい、傍観者的な態度を感じてしまうのである。


 インターネットによる情報配信が普及したため、マスメディアが今まで隠していたことが、一般の国民に知れて、マスメディアの影響力が弱まっているという事情もあるだろう。


 (一例をあげれば、現在与党の民主党が、党大会で日本国旗を引き裂いて、貼り合わせて民主党旗を作成して壇上に掲げていたことなど。これは日本国民にとって重大事である。それを隠したマスメディアには問題がある。)


 だが、依然としてマスメディアの影響を受ける人も多いのであるから、是非、今秋に福島県の農産物の安全性が証明された時には、大手を振って全日本国民に発信していただきたいと思うのである。


 また、日本のマスメディアは、海外に発信する力が弱いようにも思われる。また機会があったら述べようと思う。



2011年5月8日日曜日

シリーズ:食は命なり①序章









 食を改めなければ、人間は変わらないと思う。

 そういう私も、今の食事はかなり荒んでいる。

 食は命なり。

 体が資本。

 身体は食事によって作られ、維持される。

 食こそが人間のもと。

 食は、突き詰めれば、太陽のエネルギー。

 植物の光合成によって、空気中の二酸化炭素が炭水化物に変換される。
 
 植物は、太陽エネルギーを動物が利用できるエネルギーに変換してくれる、大変ありがたい存在である。

 植物が存在しなければ、動物は生きていけないだろう。


 日本人であれば、お米が重要であった。しかし、戦後のアメリカによる占領統治によって、米食文化が否定され、アメリカ産の小麦をパン給食などで強制的に食べさせられた。

 戦後すぐは、日本の体制も確立しておらず、アメリカからの食糧の支給はありがたかったし、感謝せねばならない。

 しかし、その後、日本が主権を取り戻したときに、日本人は、日本の政治家は日本の食文化を取り戻そうと奮闘せねばならなかったと思う。

 食文化だけではない。神道という、日本文化もだ。

 私は、神道は宗教ではなく、日本文化だと考えている。

 神道は道である。

 道とは生きる道である。

 随神の道。

 宇宙万物、神である。

 八百万の神。


 (私はキリスト教のGODを神と訳したのは大きな、重大な語訳だと思っている。このことに関しては、また日を改めて言及するつもりだ。)
 
 人間なんて、ちっぽけな存在だから、傲慢にならずに、自然を押さえつけ、支配するのではなく、自然とともに、自然の産物をありがたく頂戴しながら、生かさせていただく。

 そういう生き方を日本人は古来してきたのではないか。

 戦後、食文化が改悪されて、日本人の身体のみならず、精神までも荒廃して行った。

 私の精神も、情けない状態ではある。

 日本人は、日本の誇りを取り戻すべきだ。


 今、東電の作業員の方々が、命を賭して現場で奮闘されている。

 また、自衛官始め、公務員の方々も休み返上で国民・住民のために奮闘されている。

 頭が下がる思いだが、彼らの食事が気になる。


 何事も身体が資本であり、身体を作るのは食事である。

 食事はそのとりかたによって、善にも悪にもなる。

 なんとか健康法というものがいつも流行るが、人間にとってこれさえ食べれば健康になる!というようなものはないと考えるべきだ。

 現在の自分の健康状態、過去の食歴、住環境などを勘案したうえで、より調和した状態にもっていくには何が必要か、それが健康法である。

 私は玄米菜食を基本的には薦めるが、玄米さえ食べればそれでいいという単純な思考には警鐘を鳴らす。玄米とて過食、食べ過ぎれば害になることは明らかだ。

 何だってそうである。

 キャベツダイエット然り、バナナダイエットしかりだ。

 ○○健康法というのは、創始者の体質にたまたま合致して、一時的に劇的な効果を発揮しただけにすぎず、それに追随していくもので、たまたま創始者と類似した体質のものにしか効果を示さない。

 しかも、同じ人間でも、偏った食生活を長期に続ければ、体質が変化するのもので、○○健康法は効果がなくなるどころか、むしろ害になる。


 (因みに、玄米菜食は陰陽調和を重視し、絶対を否定し、相対を前提として、その時々の体質に合わせた食事、生活法を薦めている。この世で、絶対といえるのは、命あるものには限りがあるということくらいだ。)

 これは医学においても言えるのではないか。
ある治療法が万人に効果があるわけではないことは御承知のとおりである。

 予防接種などその典型である。これは治療ではないが、予防接種によって命を落とす人もいる。

 運が悪かったで片付けるのはあまりにも乱暴である。

 西洋医学の限界がここにある。

 西洋医学の長所は、精密な測定機器による検査結果の正確性にあると思うが、患者ひとりひとりの特性を見抜く目を持った医師は少ないように思われる。患者ではなく病気、病名を見るのが西洋医学ではないか。

 漢方や和方では、患者を見る。脈を詳しく診たり、望診法により患者全体を診る。


 私は二度ほど、鍼灸師に世話になったことがあるが、脈診の細かさには驚いた。熟練の技術が必要になるが、西洋医学の検査をも凌駕するのではないか。


 ちなみに、私は、鍼灸をあまりお勧めはできない。あれは対症療法のひとつであり、人間を根本から治すことはできないからである。


 その鍼灸治療室にも、生活習慣を改めなければ、治療の効果は意味がなくなると書いてあった。


 逆にいえば、生活習慣こそが不調のもとであり、生活習慣を改善すれば、大方の病は快復するということだ。


 国民全員が生活習慣を改めて、健康になると、いいことしかないように思われる。


 しかし、国民が健康になると困る人たちがいる。


 ここまで書けば、おおよその推察はされたかと思う。


 今回はこれまで。

2011年5月7日土曜日

福島はかけがえのない日本の宝



福島はかけがえのない存在です。

私の故郷です。

東日本の要です。

不毛の土地になんかなりません。

きっと必ず再生します。

ZenBack