そういう私も、今の食事はかなり荒んでいる。
食は命なり。
体が資本。
身体は食事によって作られ、維持される。
食こそが人間のもと。
食は、突き詰めれば、太陽のエネルギー。
植物の光合成によって、空気中の二酸化炭素が炭水化物に変換される。
植物は、太陽エネルギーを動物が利用できるエネルギーに変換してくれる、大変ありがたい存在である。
植物が存在しなければ、動物は生きていけないだろう。
日本人であれば、お米が重要であった。しかし、戦後のアメリカによる占領統治によって、米食文化が否定され、アメリカ産の小麦をパン給食などで強制的に食べさせられた。
戦後すぐは、日本の体制も確立しておらず、アメリカからの食糧の支給はありがたかったし、感謝せねばならない。
しかし、その後、日本が主権を取り戻したときに、日本人は、日本の政治家は日本の食文化を取り戻そうと奮闘せねばならなかったと思う。
食文化だけではない。神道という、日本文化もだ。
私は、神道は宗教ではなく、日本文化だと考えている。
神道は道である。
道とは生きる道である。
随神の道。
宇宙万物、神である。
八百万の神。
(私はキリスト教のGODを神と訳したのは大きな、重大な語訳だと思っている。このことに関しては、また日を改めて言及するつもりだ。)
人間なんて、ちっぽけな存在だから、傲慢にならずに、自然を押さえつけ、支配するのではなく、自然とともに、自然の産物をありがたく頂戴しながら、生かさせていただく。
そういう生き方を日本人は古来してきたのではないか。
戦後、食文化が改悪されて、日本人の身体のみならず、精神までも荒廃して行った。
私の精神も、情けない状態ではある。
日本人は、日本の誇りを取り戻すべきだ。
今、東電の作業員の方々が、命を賭して現場で奮闘されている。
また、自衛官始め、公務員の方々も休み返上で国民・住民のために奮闘されている。
頭が下がる思いだが、彼らの食事が気になる。
何事も身体が資本であり、身体を作るのは食事である。
食事はそのとりかたによって、善にも悪にもなる。
なんとか健康法というものがいつも流行るが、人間にとってこれさえ食べれば健康になる!というようなものはないと考えるべきだ。
現在の自分の健康状態、過去の食歴、住環境などを勘案したうえで、より調和した状態にもっていくには何が必要か、それが健康法である。
私は玄米菜食を基本的には薦めるが、玄米さえ食べればそれでいいという単純な思考には警鐘を鳴らす。玄米とて過食、食べ過ぎれば害になることは明らかだ。
何だってそうである。
キャベツダイエット然り、バナナダイエットしかりだ。
○○健康法というのは、創始者の体質にたまたま合致して、一時的に劇的な効果を発揮しただけにすぎず、それに追随していくもので、たまたま創始者と類似した体質のものにしか効果を示さない。
しかも、同じ人間でも、偏った食生活を長期に続ければ、体質が変化するのもので、○○健康法は効果がなくなるどころか、むしろ害になる。
(因みに、玄米菜食は陰陽調和を重視し、絶対を否定し、相対を前提として、その時々の体質に合わせた食事、生活法を薦めている。この世で、絶対といえるのは、命あるものには限りがあるということくらいだ。)
これは医学においても言えるのではないか。
ある治療法が万人に効果があるわけではないことは御承知のとおりである。
予防接種などその典型である。これは治療ではないが、予防接種によって命を落とす人もいる。
運が悪かったで片付けるのはあまりにも乱暴である。
西洋医学の限界がここにある。
西洋医学の長所は、精密な測定機器による検査結果の正確性にあると思うが、患者ひとりひとりの特性を見抜く目を持った医師は少ないように思われる。患者ではなく病気、病名を見るのが西洋医学ではないか。
漢方や和方では、患者を見る。脈を詳しく診たり、望診法により患者全体を診る。
私は二度ほど、鍼灸師に世話になったことがあるが、脈診の細かさには驚いた。熟練の技術が必要になるが、西洋医学の検査をも凌駕するのではないか。
ちなみに、私は、鍼灸をあまりお勧めはできない。あれは対症療法のひとつであり、人間を根本から治すことはできないからである。
その鍼灸治療室にも、生活習慣を改めなければ、治療の効果は意味がなくなると書いてあった。
逆にいえば、生活習慣こそが不調のもとであり、生活習慣を改善すれば、大方の病は快復するということだ。
国民全員が生活習慣を改めて、健康になると、いいことしかないように思われる。
しかし、国民が健康になると困る人たちがいる。
ここまで書けば、おおよその推察はされたかと思う。
今回はこれまで。